支えあういのち

  佐賀のがばいばあちゃん

 毎月本願寺から「仏教こども新聞」というのを送ってきます。昨年の五月号でしたか「佐賀のがばいばあちゃん」(徳永サノ)の言葉が紹介されていました。

 おはよう、と言えたら すばらしい
 こんにちは、と言えたら カッコいい
 いただきます、と言えたら 絶好調!
 ありがとう、と言えたら 天才だよ。

という言葉です。
 ちょっとおもしろいなあと思いました。私たちが、普段「カッコいい、すばらしい……」と思うこととはかなり違っているからです。
 どんなおばあちゃんだったのだろうか。興味がわいてきました。
 まだ、本屋にならんでいるだろう。


   五百万部突破

 最初その本を見て驚いたのは、帯封に「おかげさまで500万部突破!」と書いてあったことです。どうしてこんなに売れているんだろうか。タレントの島田洋七(徳永昭広)さんが自分を育ててくれたおばあちゃんの思い出を綴った本で、面白い。ただそれだけでこんなに売れるものなのだろうか。不思議です。
 そう言えば以前、綾小路きみまろさんが、「笑い」というのは、ただおもしろいということだけではなくて、そこに「真実」というものが込められていないと伝わらないし、受け入れてもらえない、というような話をされていたのを思い出しました。
 この本にも、ただ面白いということだけではなくて、人々を引きつける何か「真実」が語られているに違いない。
 その五百万部突破の言葉に釣られて、買ってしまいました。
 読んでみた私の感想は、私たちが忘れかけている何か大切なものを伝えようとしてくれているような気がしました。だから売れているのでしょう。

  伝えたかったこと

 私が感じたのは、次の二点です。
 一つは、「貧乏は、不幸ではない」ということです。
確かに、お金が儲かれば、物が豊かになれば、幸せになれるような気がします。しかし、幸せのもとがそれだけだと思ってしまうと、お金がないことや旅行に行けないこと……が不幸なことのようにしか受け止められません。今の状況をどのように受け止めていくかは、私の心のあり方(心の豊かさや知恵)の問題です。
 サノばあちゃんは、創意工夫をしながら生活をしていて、かつ、暗くない、ユーモアがある。

「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。それも、最近貧乏になったのと違うから、心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは先祖代々貧乏だから」

と言われていた。
 昭広さんが小学校低学年の時、時折学校で栄養調査が行われたそうです。数日続けて伊勢エビの味噌汁や焼いたのを食べたと書いた。すると、うそをついているのではないかと不審に思った先生が、ボロボロの家に訪ねてきた。

そのとたん、ばあちゃんはアハハハハと笑いだしたのである。
「先生、すみません。あれは伊勢エビじゃなくてザリガニです。私がこの子に、伊勢エビていうてたけん………」

と、ザリガニを伊勢エビに変えてしまうような知恵とユーモラスさが伺える話も紹介されていました。
 
 二つ目は、昔は貧乏だったけれども、互いを思いやり、支え合い、助け合う関係があった。改めてそのことの大切さを感じさせられた点です。
 昭広少年が小学生の六年間、担任が変わっても、運動会になると先生が「自分は腹が痛いので食べられん」と言って、豪華な先生の弁当を食べさせてくれた話。
 貧乏で売り物にならない崩れた豆腐しか買えなかった昭広少年。崩れた豆腐がない時は何度も豆腐屋のおっちゃんが、分らんようにグニャッとつぶして、崩れたのがあったと安く売ってくれた話。
 サノばあちゃんの家に明け方泥棒が入った。「今から仕事だから、夕方おいで」といって、夕方来た泥棒におにぎりをあげて、まじめに仕事をするよう諭した話。などが印象的でした。

   いのちの底辺を支えるもの

  人は一人では生きられません。自分のことをかけがえのない「いのち」と尊重してくれる。また、相手にもそれを感じる。そういう無条件の愛情と思いやりの関係の中で、自分の「いのち」は支えられ、安心して生きていけるのだと思います。それが、家族であったり、友人、仲間、隣近所………であったりするわけです。いのちを底辺で支え合う関係です。
 しかし、社会は違う一面でも動いています。特に今日のグローバル経済は、過当競争のなか、人間を限りなく商品化していきます。商品化というのは、人間一人ひとりを無条件に、かけがえのない「いのち」として見ていく視点ではなくて、取り換え可能な部品にしていく発想です。商品価値のある有能な能力のある人間が評価され、そうでない人間は、いらなくなったら簡単に切り捨てられていく。どうやったら商品価値が高められるか。そうでなかったら捨てられる。そのために勉強をして、いい学校を出て………。条件付きの愛情と思いやりです。
 そういう社会の価値観で、人間の底辺を支える関係まで推し量っていくと、人間の「いのち」が壊れていくような気がします。
 そんなことを感じさせる事件が幾つかありましたが、昨年七月に、埼玉県で中学三年生の女の子が父親を殺すという事件が報道されていました。父親に勉強しろと言われ、学校の成績に対して厳しかったことが、その動機のようでした。勉強することは大切なことですが、成績によってその人間を評価していくことは、人間を商品化していく視点に繋がっていきます。その物差しで「いのち」をはかると壊れていく。むしろ、成績にかかわらず、無条件にあなたを大切に思い、尊重していることを伝えていく必要があるように思います。    
 お父さんも、ただお金を稼いでくれるというだけで、尊重され、大切にされるならば、つらいものがあるのではないでしょうか。

  
仏の智慧と慈悲

 私の「いのち」は、無条件の愛情と思いやりによって支えられています。私たちにとって、そう気づくのは家族などのごく限られた範囲の中でですが、それが無限に広がっていることに気づいた方を「仏」といいます。
 仏教の智慧とは、基本的には縁起の法に気づくことです。縁起とは、人は一人で生きているのではなくて、いろいろな人や物との関わりのなかで生きている。無限につながっているいのちに気づくという一面があります。親鸞さまの言葉でいえば、『一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり』(歎異抄)という表現になります。私に危害を加える人も、関係なさそうに見える人も、みんな父母兄弟のような深い繋がりの中で生きてきた。そう気づくとあらゆる命を無条件に尊重し、思いやる心がわいてくる。それが慈悲(無条件の愛情)ということです。その慈悲の精神に立って生きることの「真実」を仏教は教えているわけです。

  
おはようがなぜすばらしいのか

 お互いの「いのち」が無条件の愛情と思いやりによって、支え合っているという関係を確認し合うのは、基本的には「言葉」だと思います。言葉を通して、相手にそれを伝え、また相手も私に伝えてくれる。だからサノばあちゃん、おはようと言えることがすばらしくて、ありがとうということが天才だと言ったのだと思います。「ばかやろう」では、それが伝わっていきません。
 私たちは、人間の商品価値を高めることが、すばらしいことやカッコいいことのように思いがちですが、人間のいのちを支える精神を確認する「言葉」が大切だとサノばあちゃんは言ってくれた。そこに仏さまの精神を感じることができます。
 サノばあちゃんは、寺に熱心に通った念仏ばあちゃんであったと聞いています。サノばあちゃんの心の豊かさや力強さは、仏さまの精神からいただかれたものかもしれません。
 

 
   
地蔵盆(じぞうぼん)よせて

 お地蔵さんは、正しくは地蔵菩薩(ぼさつ)といいます。「地蔵」という名前の「菩薩」さまです。「地蔵」とは、大地の徳を所(しょ)蔵(ぞう)せる者という意味で、また、「菩薩」とはあらゆる人々を救いたい、悟(さと)りへと導(みちび)きたいと一生懸命(いっしょうけんめい)努力(どりょく)されている人のことを言います。ですから、地蔵菩薩とは、大地のように広大な心であらゆる人々を救いたいとはたらく人ということになります。古代インドの大地の神様がルーツとされています。
 さて、今から二千五百年程前のインドの国です。お釈迦(しゃか)さまが、この世で仏(ぶつ)(真実に目覚めた者、悟(さと)りをひらいた者)となられて、そして入滅(にゅうめつ)(真実の世界、阿弥陀(あみだ)の世界に帰っていくこと)されました。お釈迦さまが亡くなったのでその後時が経(た)つにつれて、仏(ほとけ)様(さま)のみ教えを聞く人がだんだん少なくなり、世の中が乱れ、濁(にご)ってくるという「末法(まっぽう)」という時代になってきます。次にこの世に仏が現れるのは、五十六億七千万年後の弥勒仏(みろくぶつ)を待(ま)たなければなりません。その間、迷ったり苦しんだりしている人々を救うために、真実の阿弥陀の世界から人間のかたちをとって、この無仏(むぶつ)の世に現れて下されたのが地蔵菩薩であるとされています。
 そういう菩薩様でありますから、あらゆる世界へ救いの手を差し向けられる。地獄(じごく)をはじめとする六道(ろくどう)《地獄(苦しみの世界)・餓鬼(がき)(飲食物(いんしょくぶつ)を得られない飢餓(きが)の世界)・畜生(ちくしょう)(動物界)・修羅(しゅら)(争いの世界)・人間・天上(てんじょう)(天人の世界)》という迷いの世界へも苦しむ者を救うために現れてくださるわけです。
 この地蔵菩薩の教えが、中国を経て平安時代には日本に伝わってきています。
死んで迷いの世界へいった人を救う地蔵、願いをかなえてくれる地蔵、苦しみを代わって引き受けてくれる身代わり地蔵、村のはずれに立って災いを除いてくれる地蔵。人間の悩みや悲しみの数だけ地蔵さんがあるのでしょうか、日本では沢山(たくさん)の地蔵さんがいます。
 特に江戸時代に入ると「賽(さい)の河原(かわら)」の話が日本で考え出されます。日本では死者(ししゃ)は冥途(めいど)(死者の世界、迷いの世界)にいくという考え方がありますが、 その途中に三塗(さんず)の川というのがあって、そこに死んだ子供が赴(おもむ)く「賽の河原」という場所がある。子供がこの河原で、お父さんやお母さんの供養(くよう)の為に石を拾ってきては、これを積んで塔をつくり功徳(くどく)を積(つ)もうとします。すると鬼(おに)がやってきて、「もっとしっかり作りなおせ」と言っては、せっかく作ったその塔(とう)を壊(こわ)してしまいます。泣きじゃくる子供を地蔵がやってきてかばい、子供を救う、というお話です。そこから、地蔵は子供を守る菩薩さま、という信仰が定着したそうです。以後お盆の時期には、子供たちの手によって、お地蔵さまに供え物を差し上げたり、おまつりしたりという習慣(しゅうかん)が全国各地に広まって今日にいたっています。苦しみ悩む者、弱い者を助ける地蔵さんの精神(せいしん)の広大さが、社会の弱者の最たる象徴(しょうちょう)である子供を守り助けるという話になったのでしょうか。

 ここで、昔話を一つ紹介します。
 ある村に二つのお地蔵さんがいました。一つは何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんです。もう一つは、人間の守るべき道、真実の世界や生き方を教えてくれるお地蔵さんです。
 どちらにみんなお参りするかというと、当然何でも願いをきいてくれるお地蔵さんです。病気を治(なお)してください。お金を儲(もう)けさせてください。長生きしますように………、大繁盛(だいはんじょう)です。もう一方のお地蔵さんはというと誰もお参りしません。
 そういう村に一人の綺麗(きれい)な娘さんがいました。この娘さんに二人の男が恋をします。どうしても結婚したい。二人の男は互いにそう思っていました。
 「そうだ、村には何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんがいる」
 一人の男が思いつきました。
 「よし、おねがいしょう」
 「お地蔵さん、どうかあの娘さんと結婚させてください」
効果(こうか)抜群(ばつぐん)。その願いがかなって娘さんと結婚することできました。幸せいっぱいです。ところが、面白くない男が一人います。娘さんに恋をしていたもう一人の男です。しあわせそうな二人をみるにつけても、腹が立って煮(に)え繰(く)り返(かえ)ってきます。
 「今に見ていろ。よーし、こんどは俺(おれ)がお地蔵さんにお願いしてやる。」
 「お地蔵さん、どうか憎(にく)たらしいあの二人を殺してやってくれ」
願いがかないました。とうとう結婚したばかりの幸せいっぱいの若い二人は死んでしまいました。
 これをみていた村人は、さすがに反省しました。
 「そうだ、願いをかなえてくれるお地蔵さんばっかり拝んでいるとみんな不幸になってしまう。それよりも、人の守る道や真実の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りせんならん」
 それからは、何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんには参らずに、人の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りするようになったということです。

 この話は私達に何を訴(うった)えているのでしょうか。
 私達の日常は、ともすれば自分中心の、自分が良ければいいという願いに振り回されがちです。そうことをお地蔵さんにお願いしたりもします。しかし、そういう処に私の幸せがあるのじゃなくて、お地蔵さんのすべての人を救いたいという精神の中にこそ、私の幸せがあるということではないでしょうか。
 地蔵盆というのは、亡くなった人への思いを通して、亡くなった人が帰っていった仏様の世界・仏様の精神に照らされて、自分のあり方を反省する日です。自分のことばっかり考えている日暮(ひぐらし)を反省して、自分を支えてくれるはたらきや周りの人たちのしあわせを考えていく日です。私の日暮を地蔵の精神に照らして反省する日と言えます。 
   


   
アリス君とコペル君

 児童文学者でありジャーナリストでもあった吉野源三郎という方がおられました。
 明治三十二年のお生まれでして、昭和十四年に明治大学文学部教授に就任。戦後は、岩波書店の雑誌「世界」の初代編集長を、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長などを歴任し、昭和五十六年に八十二歳でお亡くなりになっています。昭和を代表する進歩的知識人と評されていました。
 この吉野さんが、昭和十二年に「日本少国民文庫」の一冊として、「君たちはどう生きるか」を刊行しました。
 昭和十二年といえば、アジア大陸への進攻と軍国主義の高鳴りのなか、七月に蘆溝橋(ろきょうこう)事件が起こり、日中戦争がはじまった年でした。そのような自由が疎外されていく国粋主義的時勢の中、次の時代を担(にな)う少年少女に、人生何を基軸(きじく)としてどこに向かって生きていくべきなのか、ということを問いかけた作品であったように思います。平成十五年の「私の好きな岩波文庫100」で五位にランクされるなど、今日もなお評価が高く私たちに大切な示唆(しさ)を与えてくれています。
 さて、この本は、十五歳の少年コペル君が日頃の疑問を投げかけ、それに叔父(おじ)さんが応答するという、対話をとおした構成になっています。その中で印象に残った話を紹介します。

 ある日コペル君は、叔父さんからニュートンの話を聞いて、粉ミルクの缶(かん)のことを考えました。うちでおせんべいやビスケットを入れておいているものです。輸入品粉ミルク「ラクトーゲン」の大きな缶で、オーストラリアの地図と牛の絵が描いてあります。
 この缶は、赤ちゃんの時おかあさんの乳がたりなくて毎日ラクトーゲンを飲んで育ったのだといつかお母さんから聞いた、その時のものです。その話を聞いたとき、「じゃ、オーストリアの牛も僕のお母さんかな」と言ったことを覚えています。
 そうしたら、ニュートンの話を思い出しました。
 高いところからリンゴが落ちるのを見て、もっともっと高いところにあったらどうだろうかと考えてみた。なぜ月は落ちてこないのだろう。「どこまでも考えつめていくうちに、ニュートンはすばらしい考えを思いついたのだ」と叔父さんは言っていました。
 それで、コペル君も粉ミルクに関係のあることを、とことん考えつめていこうと思いました。
 オーストラリアの牛から、赤ちゃんであったコペル君の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に思ってみました。すると、あきれるほどのたくさんの人間が出てくるんです。ためしに書いてみます。

 「 ㈠ 粉ミルクが日本に来るまで。
 牛、牛の世話をする人、乳をしぼる人、それを工場に運ぶ人、工場で粉ミルクにする人、かんにつめる人、かんを荷造りする人、それをトラックかなんかで鉄道にはこぶ人、汽車に積みこむ人、汽車を動かす人、汽車から港へ運ぶ人、汽船に積みこむ人、汽船を動かす人。
  ㈡ 粉ミルクが日本に来てから。
汽船から荷をおろす人、それを倉庫にはこぶ人、倉庫の番人、売りさばきの商人、広告をする人、小売りの薬屋、薬屋までかんをはこぶ人、薬屋の主人、小僧、この小僧がうちの台所までもって来ます。」
 それから、工場や汽車や汽船を作った人………。何千人だか、何万人だか数知れない人が僕につながっていることを発見します。
 さらに考えを進めていくと、電灯や、時計や、机や、畳や、そのほか、どれもみんなラクトーゲンと同じでした。数えきれない大勢の人間が、うしろにぞろぞろつながっています。
人間それぞれの分子は、みんな、見たこともあったこともない大勢の人が網の目のようにつながっている。これを僕は「人間分子、網目(あみめ)の法則」ということにしました。
 そのことを叔父さんに報告します。
 すると叔父さんは、そのことはすでにちゃんと発見した人はいるが、コペル君が気づいたことは非常にすばらしいことだとよろこんでくれました。
全く見ず知らずの人ばかりだけれど、人間同志、地球を包んでしまうような網目の関係を作り上げている。それなのに、まだまだ本当に人間らしい関係になっていない。いまだに争いが絶えない。
 人間らしい関係とは、お母さんが君のためにしてくれているように、相手のためにつくしていくことが、自分の喜びであるような関係だ。人間同志、お互いに好意をつくし、それを喜びとする関係である。たとえ「赤の他人」の間(あいだ)にだって、ちゃんと人間らしい関係を打ちたててゆくのが本当だ、と叔父さんは教えてくれました。

  概略、こんな話です。 

 私は、これを読んだとき、吉野さんがなぜ主人公をコペル君という名前にしたのか、頷けたような気がしました。コペル君は、勿論コペルニクスからきた名だと思います。ご承知のように、コペルニクスは地動説(ちどうせつ)を唱えた人です。それまでは、アリストテレス以来太陽が地球の周りをまわっているという天動説(てんどうせつ)が主流でした。普通に見たらそのようにしか見えません。みんなアリス君でした。ところが、よくよく考え観察していくと地球が回っているのが真実であったわけです。
 私は、これは自分の命で、自分の力で生きているように思っています。普段はそう思っています。だからアリス君なのでしょう。しかし、よくよく自分の命の背景を観察していくと、数えることもできない多くの人とのつながりや支えがありました。それだけではありません。動植物や大自然の恵みによって、本来自分のものでない命をたまたま自分の命として与えられ、成り立っていました。こちらが真実です。
 この真実を人生の基軸に据えて人間らしい関係を願って生きていくことが人間としての生き方ではないのかということを、吉野さんはコペル君の名に込めて伝えようとしてくださったのではないか。
 私にはそのように受け取れました。

    
報恩の日

 私の命の背景、命の真実を悟(さと)った方に、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)という仏(ぶつ)がおられると釈尊(しゃくそん)が教えてくださいました。その阿弥陀如来は、すべての人を救うことが、あなたを救うことが仏の願いであり喜びだ、とその心とはたらきを念仏こめて私に届けてくださっています。
 親鸞聖人は、その阿弥陀の願いに感動し、そこに自分の生死を超えていく普遍的な営みを見い出されたのではないか。そして、その呼びかけを自分の基軸に据(す)えて、他者のためにつくしていくことが、自分の喜びであるような人生を力強く歩んでいかれたのではなかったかと思います。
 一月十六日は、新暦になおした親鸞聖人の祥月命日(御正忌)です。その日を機縁に、親鸞さまのご恩徳をしのぶ報恩の集い(報恩講)が営まれてきました。それは同時に阿弥陀如来の救いを深く味わう日であり、先祖をはじめもろもろのご恩を思い、自分の命の背景を深く考える日でもあります。
 また、報恩講は、自分自身が自分の命の背景を見失い、自己中心的な欲望のみを満たすことが幸せや喜びと思っていなかったか、アリス君になっていなかったかを見直す日でもあります。


  霊魂からの解放


 日本人は、霊魂(たましい)を宗教としてどのよう受けとめてきたのでしょうか。
 岩波哲学思想辞典を見ると

民俗宗教では死後霊魂はこの世の近辺にいるが、次第に山など遠くへいくものの、お盆や正月にはまた身近に帰ってくると信じられてきた。この世の近辺にある期間は不安定な状態にあり、これが安定した状態に移行すると「成仏」し、「先祖」になったと考える。また、神として祀られる場合もある。それがうまくいかないと、この世に好ましくない事態が起こる。とりわけ、怨みや不安を遺した死者や祀る者のいない死者の霊魂は、長くこの世に悪影響を与えるとする。「怨霊(おんりょう)」や「祟(たた)り」の信仰も強い。

などと書かれています。
 人は死ぬと肉体は滅んでも、非物質的な精神的実体としての霊魂は存在し続ける。死後しばらくは近辺にいるが不安定な状態にあり、残された者の供養などによって成仏したり先祖になったりする。それに失敗すると「怨霊」や「祟り」をもたらすものになると考えられてきた、ということなのです。
 日本の歴史を生きてきた者には、多少なりとも無意識のうちにこういう観念が入り込んでいるようにも思います。
普段は特に意識することはありませんが、原因不明の現象や不幸が続くと霊魂のことが浮上してくる。
 よく見聞きするのは、自分が癌などの病気になって原因がよく分からない。治る見込みもない。不安で仕方がない。そういう時に、「何代前の亡くなった〇〇さんのことをちゃんと供養していないからだ」と言われると、ぴたっとそこにはまり込んで、真剣に恐れ悩んでいる方がおられるということです。

 
 毒矢の譬え

 それでは、仏教では基本的に霊魂をどのように見ているのでしょうか。
 釈尊が目覚めた真実は、「縁起」とか「諸法無我」「諸行無常」などの言葉で表現されています。すべての存在は、様々なものが仮に依り集まって成り立ち、生成消滅変化を繰り返している。諸行(一切の存在)は無常であり、永遠普遍で固定的な実体というものは何も存在しない。ですから、永遠に変わらぬ実体として不滅の霊魂というものは存在しないということになります。
 ところが、釈尊は「霊魂不説」の立場で、有るとも無いとも説いておられません。その理由として、「毒矢の譬え」を示されています。
『箭喩経(せんゆきょう)』には、
 毒矢に射られた人がいたとする。まわりの者はすぐに毒矢を抜いて手当をしようとしたが、この人が、この矢を射たものはどんなカーストに属する人間か、弓は何でできているか、弦の種類は何か、矢の幹・羽等は何でできているか等々をたずね、それらがわかるまでは矢を抜いてはならないと言ったとすれば、おそらくその間に毒は体内にまわって死んでしまうであろう。いま汝の問いも同様である。如来の答えが得られる前に、汝は命を失うであろう。また仮にこれらの問題に有・無のいずれの答えが与えられたとしても、われわれの、生あり老あり病あり死あるという苦悩の現実は何も解決しないではないか。(深川宣暢氏要約)
と説かれています。
 つまり、霊魂が有るとか無いとかが問題なのではなくて、生老病死をなぜ苦にする私がいるのかということが問題の核心だというのです。霊魂ばかりに目が向いていくと、有るとか無いとか不毛の泥沼に陥ってしまって、私の問題の核心が見えなくなってしまう。
 たとえば、私が病気になったとします。お医者さんでも治らない。その原因が霊魂の祟りだと思い当たるとどうなるか。「霊魂さん何とか機嫌直してくださいよ」と四方八方手を尽くすのではないかと思います。場合によっては霊感商法に引っかかるかもしれません。そうすると何が見えなくなってしまうのかというと、問題の核心である健康が百点で病気が〇点だという私のものの見方そのものです。
 そもそも「命」というのは自分のものではありませんから、自分の思う通りになりません。私以外のさまざまなものが仮に依り集まって作(生)られています。時間がたつと経年劣化(老)していく。ときには故障(病)もします。そして最後は元のバラバラな状態(死)に戻っていく。本来は、生も老も病も死も状態が変わっていくだけであって、どの状態にあろうとも百点満点なんです。ところが、その命を自分のものだと思い込み、自分に都合の良い我に執着してしか生きられない(我執から煩悩が起こる)。死ぬまで一歩もそこから抜け出せない。
 若くて健康で長生きすることが、素晴らしいことで私の求めていた喜びや安心満足だ。そして、うまくいかなくなると、霊魂や先祖の所為(せい)にして自分の問題の本質をごまかそうとする。それも煩悩の仕業(しわざ)なのです。そうして自分の問題の本質に気づこうともしない。その姿を親鸞聖人は、仏から知らされて「煩悩具足の凡夫」とおっしゃってくださいます。
 それでは、そういう私はどうしたらよいのか。
 それは自分の本質的な課題に気づき「意識化(いしきか)」していくことだと思います。仏法を聞くというのもそういうことです。
 釈尊は、「知って犯す罪と知らないで犯す罪とどちらが恐ろしいか」という質問に対して、「それは知らないで犯した罪のほうが重くて恐ろしい」と説かれています。知らないと永遠にそこから解放されることはないのです。我執煩悩が私の本質的課題であると意識して送る生活と知らないで無意識に送る生活とでは、知らない方(ほう)はそこから解放されることがありませんから、闇が深いわけです。
 以前、県内のお医者さんで禁煙に成功したという方の話を聞いたことがあります。禁煙しなければと思ってはいるがなかなか止められない。そこで先生は、紙に煙草の害をいろいろ書いておいたそうです。そして煙草を吸いたくなると、その紙に書いてあることを順番に声を出して読んでいく。さすがに最後まで読んでいくと今日は止めようかという気になる。しかし、また吸いたくなる。そうするとまた紙を出してきて順番に読んでいく。最後まで読んでいくと今日もやっぱり止めとこうという気になる。しかしまた……、ということで何十回も何百回も繰り返して、禁煙に成功したとおっしゃっていまして、印象に残っています。つまり、吸いたくなったら禁煙の害を声を出して読むことによって、徹底的に自分に「意識化」させることによって成功した。
 実は、念仏申すということも、そういう一面があるのではないかと思います。
 南無阿弥陀仏というのは、すべてのものを救いたいという阿弥陀如来の願い(本願)が込められた、私へのメッセージです。そもそも釈尊が気づいた私の命の事実は、生きとし生けるものは、みな相互に依存し関係し合いながら、父母兄弟のようにつながっているということで、「一如(いちにょ)(一つのごとし)」とも言います。私が救われようと思ったら、つながっているすべてが救われなかったら、本当に救われたことにならないわけです。
 そういう命を生きていながら、それに気づかず我執煩悩(がしゅうぼんのう)でしか見れない。我執煩悩が満たされたことが幸せだ喜びだと生きていますが、それを霊魂が守ってくれようが祟(たた)ろうと、要は私たちはみんな死んでいかねばならないのです。我執煩悩の延長線に救いはないのです。
  その私に命の事実(一如(いちにょ))から、形を現し言葉(喚び声)となって目覚めよ気がつけよと呼びかけてくださる方が阿弥陀様です。
 生涯煩悩から抜けきれない私たちですが、煩悩の感情(特に苦しみや悲しみ)が起こるたびに、如来の喚び声を口に出してその心(本願)を聞いていく。そうすると私の我執煩悩が問題の本質だと意識化されて、如来の本願こそ私の命の根源に宿された願いであり、そこにこそ私の命を尽くしていくべき救われる方向があると気づきていきます。
 それが霊魂から解放されていく道であると仏教は教えているように思います。
 老・病・死の現実は、悲しく辛いことですが、それは私の我執煩悩(がしゅうぼんのう)が勝手にそう思っているだけで真実ではないのだと智慧の眼が開かれてくると、それを引き受けていける心の豊かさと安らぎがもたらされてきます。                     

住職 の話