死の受容

 厚生連高岡病院に勤務されていた内科医の狩野哲次先生をお招きして、終末期医療が抱える問題についてのお話を伺ったことがあります。その中で印象に残ったことがありました。
 現在では、癌にかかると大抵の場合、患者さん本人に直接病名を告知されるそうです。治る見込みがある場合も、治る見通しの立たない場合も告げられる。進行した癌などは、医療技術が格段に進歩した現代にあっても、やはり治らないわけです。個人差はあるにしても、聞かれれば、だいだい余命は何か月ぐらいではないかということを告げられる。そうすると告げられた患者さん本人は、残された余命をどう生きたらいいのか、悶々と孤独に悩まれるということが多いということです。
 生への執着や死への不安、恐れ、さまざまな思いが錯綜し、なかなか死を受容できない。
 特に現代の日本人は、死んだらお終い、何も無くなるという意識が強くて、死に対するタブー、不安、恐れが、昔から比べると強くなってきていることもその要因の一つではないかと指摘されていました。
 日常の生活で、終末期の迎え方、死というものをどのように受け止めたらいいのか、ほとんど考えようとされていない。家族で話し合うこともない。そういう状況の中で、だれか家族の一人が、癌などで終末期を迎えたらどうでしょうか。あなた死ぬ人、私残る人という後ろめたさもあり、死んだら終わりだという意識があるから、患者さんの気持ちを慮って、死に関する話題を避けようとする。患者さん本人も、しっかりとした死生観を持っていないと死と向き合うことを避けてしまう。1%の可能性に望みをかけて、最後まで治る希望を持って生きていかれる。周りも本人も「死」という問題をオブラートに包んで表に出さない。しかし、自分が死なねばならないという苦悩や不安が解消されたわけではありません。患者さん一人が孤独に心の中で悩まれるということだと思います。






     死の迎え方

 狩野先生は、以前終末期に関するアンケート調査をされたそうです。その中で、「あなたはどのような死を迎えたいですか」という設問に対する答えが、二つに大勢を占めた。一つは、何らかの形で自分の人生を総括して、自分の人生に満足して、周りに感謝しながら終わっていきたい。二つ目は、できるだけ周りに迷惑をかけずに、無駄な延命治療はせずに、ポックリと死にたいということです。
 ポックリ死ねるかどうか、周りに迷惑をかけるかどうかは、その時の御縁次第でしょうが、それでも最後は、自分の人生に満足して、感謝して終わっていきたいというのが、私も含めた多くの方の心情だと思います。
 しかし、死の受容がうまくできていないと、自分の人生に満足して、周りに感謝するどころではないという現実があるようです。幾つか事例を紹介してくださいました。

七十代後半の男性。煙草の害からくる慢性閉塞性肺疾患の患者さんですが、病状は治る見込みがない。ある日家族から、先生の口から言ってほしいと頼まれたこともあって、本人に病状を説明して、「治る見込みはありません。このままでは亡くなるかもしれない。息子さんに身代を譲るなど身の回りの整理や心の準備をされたらどうですか」と話した。そうしたら、「先生まだまだ早いでしょう」と言われた。こんな手遅れの酷い病状を説明しても、なお、自分の死と正面から向き合うことができない。それ以上何も言えなかった。
 それから、七十代後半の女性。卵巣がんの末期で、抗がん剤治療で二年間延命をされた。最近は、抗がん剤治療も進んできて、延命する期間が長くなった。それだけ終末期を長く経験しなければならない。
 そして、最後は抗がん剤も効かなくなって万策が尽き、沢山転移が見られるようになってきた。そういう状態になった時、患者さんに話したそうです。するとその患者さんは、「どうしてもだめなんですか。もう治療法はないんですか。それじゃこのまま何もしないで死ぬのを待つだけなんですか」ということを話された。その時先生は、この二年間の治療は何であったのだろうか。医療従事者としては、患者さん本人が、自分の人生を総括して、死への心構えをしてもらいたかったのだが、結局問題を二年間先延ばしにして、最初に戻っただけなのか、と思われたそうです。 
 それでも何か治療を続けてほしいいうことで、続けたが、吐き気や頭痛の副作用が激しくて治療を止めた。そうするとその患者さんはどうなったかというと、何を話しかけても、ただじっと上を見て、目を開けたまま一切応答しなくなった。うつ状態になって亡くなっていかれた。というお話でした。

家族も、医療従事者も、何とかしたいとは思っても、死の受け入れは、患者さん本人の心の問題です。やはり、元気な時から、自分の死をどう引き受けていくのかをトレ−ニングしないといけない。死の受容のために何が大事かというと自分なりのしっかりした死生観を持つことです。ところが、これは甚だ難しい。それだけに一生費やしたり、作れなかったりする人もいる。だからご縁のある宗教からそのことを学ぶということも大切なことではないでしょうか。特に富山県は、浄土真宗のご縁の深いところである。浄土真宗が、明らかにしてくださった仏教は、死んだら終わりという教えではありません。この世の生が終われば、新たに仏としてのいのちがスタートすると教えてくださっている。そういう教えにも耳を傾けながら、しっかりとした死生観を持つことが大切であると強調されていました。







     死はタブーなのか

フランスの民族歴史学者フィリップ・アリエスは、「死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないものとする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、それをあえて口にすることも差し控えるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。」と、西洋の「死」の歴史を振り返って、そう述べています。そして、このような変化は、西洋では二十世紀の中頃から、顕著になった。その理由をアリエスは、二十世紀に入って人々は、「人生とは幸せであることが大切であり、死の苦しみや醜さは、幸せの生活を混乱させるもので、出来るならばそれを見せないでおきたい」と考えるようになったからであると言う。そうした考えを起こさせる原因の一つが、人が病院で死ぬようになり、死が(醜いもののように)人の目から覆い隠されていったためであると言っています。
 このような状況は、日本においても同じようなことが言えるのではないかと思います。
 一昔前までは、暮らしの中の日常風景として生老病死がありました。死は、日常的なものであり、自然なものとして引き受けていくべきもの。また、死者と共に生きているという感覚もあり、今日ほどの死に対するタブーや恐れはなかったように思えます。つまり、死とうまく折り合いをつける文化や精神性を持っていた。 
 ところが、今日は、病気や老いや死は、人間を不幸のどん底に落とす敗北でしかないから、見ようとしない。そりより、若さや健康を追い求めることが、人間を幸福にするということがより意識されるようになってきたのではないか。老病死が、家という日常生活空間から病院や施設へと隔離され、身近に見えなくなってきたことも、そのことを助長してきたように思います。
 その結果、不都合な病気や老いや死に対して、精神的に弱く、もろくなってきた。つまり、うまく死ねなくなったということではないでしょうか。
 病気や老いや死は、避けて通ることのできない私の命の一部です。それを避けて都合の良いところだけを求めていくことが幸せだ、生きる意味だと思うことは、自分の生きる意味を非常に脆弱なものにします。今日の終末期(死の受容)の問題もそのことを物語っているように思えます。
 自分の死から目をそらすことなく、仏法の中に、死を乗り越えていく道と本当の生きる意味を見出したいものです。






   釈尊(しゃくそん)のさとり


 釈尊の出家の動機の一端を物語る「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というお話しがあります。
 ある日、物思いに沈みがちであったシッダールタ王子(のちの釈尊)を心配した父の浄(じょう)飯(ぼん)王(のう)は、家来を連れてカピラ城の東の門から遊びに出されます。
 その折に、道端を顔がしわまみれで、こしが曲がり背中をまるめ、杖にすがって喘(あえ)ぎながら歩いている人をご覧になりました。
  「あれは、なんだ?」と家来に聞かれます。
  「老人というものです」
  「わたしもそうなるのであろうか」
  「そうです。人間はみんなあんなすがたになるのです。シッダールタさま、あなたもです」
   「わたしも、ああなるのか」
 そう言われた王子は、青春の輝きも色うせ、意気消沈して城へと帰って来ました。
別の日、今度は南の門から遊びに出られます。
 そこで、病人に出会われ、同じような質問をします。
  「あれは?」
  「病人です。人間は、いつかあのように病気になって苦しまねばなりません。王子あなたもです」
 つらい気持ちになり、ふさぎこんで直ちに城に帰られました。
また別の日、西の門から遊びに出られます。
 今度は、葬式に出会われました。
 同じような質問をして、私も最後は死なねばならんのかと、いよいよ沈みこんで、城へと帰って行かれました。
 次の日です。北の門から遊びに出られた時に、褐色の衣を身に着け、厳(おごそ)かに歩いて行く一人の修行者に出会われました。穏やかですがすがしい顔をしています。
 そこで、王子は聞きました。
  「この世は、楽しく生きたいと思っても、老病死という苦悩から免れることはできません。そう思うと気が沈み、悩まずにはおれません。なのに何故あなたは、そんなすがすがしい顔をしておられるのですか」
  「あなたもね、修行をして真実(法)がわかるというとこんなような顔になりますよ」と修行者はこたえました。
 このような出来事が、出家の動機になったのではないかというお話です。





















 さて、出家した釈尊は、当時の習慣にならって、先ず徹底した苦行に入ります。それは、苦しみや悩みに負けない強靭(きょうじん)な精神や肉体を鍛えるというものでした。しかし、体は骨と皮となり衰弱していくばかりです。
 やがてそのことの無意味さに気付いた釈尊は、スジャータの乳(ちち)粥(がゆ)の施しを受け、元気を取り戻して菩提樹の下で瞑想に入ります。
 釈尊の瞑想の課題は、何であったか。おそらくは、こういったことではなかったのでしょうか。
 「なぜ自分は苦悩するのか。苦悩の原因は何か。鳥や牛というような動物は、人間と同じように、年をとり、病気になり、死んでいくのに、そのことを悩んでいるようには見えない。ありのままに与えられた現実を生きている。なぜ人間である私だけ
が、老病死の現実に悩むのか。」
 瞑想の中から、釈尊がさとり気付いたのは、私が悩むのは、悩まそうとするはたらき(法)がはたらいているからだ、という発見でした。
 そのはたらきを「阿弥陀(あみだ)」と教えてくださいました。「ア」は否定語で、「ミダ」は量(はかり)という意味で、一メーター、二メーターという物差しです。つまり、私の自分中心的な我に執着するという我執の物差しでない、真実(法)のものさしがはたらいているということです。
 よく釈尊のさとりを万有引力の法則を発見したニュートンにたとえられることがあります。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、その法則を発見しました。釈尊は、苦悩する自分の事実から、阿弥陀の法のはたらきを発見しました。その法のはたらきに耳を傾け従っていくところに、自分のものの見方考え方が正され、苦悩から解放されていく道があるとお説きくださいました。
                       


 私たちの日常を考えるとどうでしょう。
 幸せと思う時や楽しい時には自分の人生が問題となるようなことはほとんどありません。何かに挫折し、老病死の事実に苦しみ悩む時、自分の人生は何であったのかと問われ、私のあり方が課題となってきます。そこに仏法を聞こうという心も開かれてきます。
 以前岡西法英という先生が、「神経の願い」という話をされていたことを思い出します。
 私たちはあまり意識したことはありませんが、体の中には神経というものが流れている。怪我をしたり、胃などを無理すると痛いと感じます。「ああ、私の体には神経が流れていた」とそこで意識するわけです。私たちは、ある意味で健康であってくれという神経の願いの中に生かされているといってもいいのではないか。その願いに反すると痛いという形で、私にその願いを届けてくれる。それに気づいて、病院へ行ったり摂生(せっせい)していくと自ずと健康を回復していくが、好き勝手にやっていると健康を害していく。
というような話でした。
 これと同じようなことではなかろうかと思います。
 私の苦悩を通して、阿弥陀の願いが届けられているということです。





 また、ヴァッカリーという釈尊の弟子の話も示唆にとんでいます。臨終の間際にもう一度釈尊を礼拝したいという願いに応じて、釈尊が枕元にやってきます。一心に釈尊を拝むヴッカリーに対して、
 「私もやがて朽(く)ち果てていく。私のこの汚れたからだをみて、何になるのか、私のこの体をみるものが仏を見るものではなくて、法を見る者こそ仏を見るのだ」
と釈尊が発見した法に従って生きることの大切さを教えてくださっています。
 この法は、南無阿弥陀仏という名前(名号)となって私に届けられています。
 その名号を称えながら、そこに込められた阿弥陀の法に従って生き抜かれた方が、親鸞さまでありました。