米地蔵 由緒
(通称 地蔵宮)

 (吉久に御蔵があった)江戸時代、小矢部川の入江が中伏木から吉久まで入りこんでおり、これを御米通路川と呼んでいた。この船だまりの水門あたり(消防屯所の北側あたりか)は、いつも水がうずを巻いていて、過って水に落ちてもいつも遺体があがらなかったという。あるとき、水に落ちた人を捜しにもぐった所、地蔵がみつかったのでこれを祀るようになったと伝える。(また、一説には、大洪水のたびに同じ場所に流れ着いたので祀ったと伝えられる)
  御堂(御宮の建方)には、浮彫の地蔵菩薩立像(室町後期)が一体、浮彫の阿弥陀坐像(室町初期)が一体、共に室町時代の古いものである。他に自然石が九体。これらを俗に米地蔵と呼んでいる。放地家の丸彫地蔵立像が一体合祀されている。
  遠い昔の地蔵祭りは、いかようになされたのか、知るよしもないが、明治の終り頃から昭和の初めにかけて、四月一日の祭りには吉久の餅撒とか、ヤマノの餅撒とか謂われ、近郷近在より多くの人々が集まり賑わったといわれる。餅撒の餅は、ヤマノ、マルハチ、カネサン等の倉々(米商)を廻って、寄附してもらった餅米をついて、オケソク(小さな餅)にして、二俵分を西照寺の屋根から撒いたが、俵にはワラも入れてあり中味は一俵分四斗ほどであった。中に赤、白と字の書いたものが混じっており、これを拾うと大きなおかがみがもらえた。この祭りは米穀商、百姓等田畑や米倉で働く人々の祭りで餅草(ヨモギ)を入れた草餅をついてたべた。餅草は、子供達が土手や河原へつみに出かけた。
  地蔵宮は初め大宮の境内にあったが、吉久に悪いことが続いたので御宮に地蔵様を祀るからだということで、明治の初め頃に今の消防屯所の所へ移されたと謂われる。スズメ竹や雑木林に囲まれて西に向いて御宮が建ち、細い石燈籠一対が有ったとい謂う。
  昭和二十六年のジェーン台風で御蔵町にあった青年会館が傾いたので、昭和二十八年にこれを取り壊した時、隣接した消防屯所も撤去し、地蔵宮を元の大宮の境内に移した。このとき、地蔵宮の瓦を取りはずして、ハサ木で木組をして消防団員がかついで西町を廻って、大宮まで運んだ。
  地蔵宮のあと地に消防屯所を新築した。このとき、石燈籠がどこへ行ったか不明。昭和三十七年公民館建築にともない地蔵宮は、御寺にあった方が良かろうということで、御寺の境内に移された。
  元地蔵宮にあったと謂われる古式の狛犬が一対大宮の拝殿にある。これには天文二十四年(一五五五)と刻まれており、これは室町末期になり地蔵宮建立以前の古いもので、どこかの神社仏閣にあったものが何かの由来があって地蔵宮に移されたと思われるが、何ら伝えるものが無い。
                             
「よっさ 神社と獅子舞」吉久獅子舞保存会発行より引用  


聖徳太子立像



  
    
 
 西照寺の釣鐘堂の横のコンクリートの御堂には、聖徳太子の立像がある。昔、伏木と吉久で石灰を

焼いていた(製造)工場の人達が祀っていたか、その後、各自か独立して、別々の工場になったので、

もう一体造って吉久の工場に安置した。

                                    「よっさ 神社と獅子舞」吉久獅子舞保存会発行より引用